エネルギー生産のために発酵するがん細胞

エネルギー生産のために発酵するがん細胞

このエントリーをはてなブックマークに追加  

1956年、名の知れているドイツの生化学者オットー・ワールブルク(1883〜1970年)は、アメリカの科学雑誌「サイエンス」に「がん細胞の起源について」という題名の講演記録を載せました。

 

彼はその中で、「がん細胞は呼吸をする構造が壊れているが、その代わりに発酵によってATPを生産している」という自分の発見の重要性を発表しました。彼は細胞の呼吸研究のオーソリティで、呼吸の研究で1931年にノーベル生理学医学賞を獲っています。

 

正常な細胞は、十分な量の酸素がある環境のなかで分裂するとき、そのエネルギーの大部分が「呼吸」をすることで作り出されています。呼吸は酸素を使う一連の生化学反応で、次のような経過をたどります。

 

  1. 細胞の外からブドウ糖(グルコース)を取り込み、それを2つに分割してピルビン酸という原料分子に変化させる。
  2. ATPを大量生産する役割を果たしているミトコンドリアのもとに原料を運び入れる。
  3. ピルビン酸を少しずつ分解していき、それにより放出されるエネルギーを使ってATPを製作する。
  4. 最終的に原料は水と二酸化炭素に分解され、ブドウ糖1つから合計36個のATPが生み出される。

 

エネルギー生産のために発酵するがん細胞

 

一方、たとえば急に激しい運動をしたあとの筋肉のように、細胞に酸素が足りていない場合にはエネルギーは別のやり方で蓄えられます。このときブドウ糖はピルビン酸に分解されるのですが、ミトコンドリアのところまでは運ばれません。

 

ピルビン酸は乳酸に変化させられ、そのほとんどが細胞外に排出されます。これは「発酵(または解糖)」とよばれる過程で、ブドウ糖から生産されるATPは、たった2個だけです。 がん細胞は酸素が十分に満たされている条件のもとでも、なぜか効率の悪い発酵に頼ってエネルギーを取得している、という変わった現象にワールブルクは注目しました。

 

彼は、現在「ワールブルク現象」とよばれるこの現象こそががんの原因で、がん治療を選択できるようにするもの、つまりがん細胞に対してのみ攻撃することが可能であると論じました。また彼は、肝臓が再生するときのように正常な組織が急な速度で分裂するときには、絶対に呼吸のほうが効率がいいと論じ、対して未分化な胚細胞では発酵の比率が大きくなることについても指摘しました。

 

 

そして、呼吸より発酵のほうが優位に立つ原因は、細胞の分裂の速度というより、十分に分化していない細胞、つまり未分化であるからと考えました。老大家ワールブルクは、この講演の一番終わりに、「ここにがんの本質がある。

 

昨今さかんにおこなわれている“変異”“発がん物質”“がんウイルス”などの研究は、本質を見誤らせる原因となっている。がん治療の発展を遅らせる有害なものでさえある」と断じました。この排他的なワールブルクの主張が間違いであったことは、その後のがん研究の流れ(前述)を見ればわかることです。

 

 

しかし、彼が見つけた現象そのものは、これから先がん研究に携わる人々の脳裏に深く刻まれることとなりました。何か新しい発見や概念が出てくるたびに、がん研究者たちは「これでワールブルク効果の説明がつくだろうか」と自問することが当たり前となりました。

 

現在では、がん化に関係する多くのシグナル伝達経路は、細胞の中で解糖(発酵)をうながし、呼吸を制限するはたらきを持つことが分かっています。またワールブルクは、呼吸の低下を「欠陥」とだけとらえていましたが、何個かの観点から、むしろ「優位性」とみることができるのではないか、という説も出てきています。

 

たとえば、ATPを呼吸に頼って生産するには時間がかかるのですが、解糖は短い時間で済みます。なので、十分な材料さえあれば、解糖はエネルギーをとりあえず取り出すには良い方法ともいえるのです。

 

 

事実、がん遺伝子の一部のものには、細胞へのブドウ糖の取り込みを増えさせるはたらきを持つことが分かっています。また、がん組織の多くは細胞がすき間無く詰まっているために、血管による酸素供給がとどこおり、酸欠状態になりやすいのです。解糖は、酸素消費量が少なくて済むので、そういったがん特有の微小環境によく合ったエネルギー取得法と見ることもできるのです。

 

さらに、糖を二酸化炭素と水にまで分解しきってしまう呼吸とは違い、解糖で生まれる乳酸は、生体で必要になる別の分子(たとえばアミノ酸)を作成するためのよい材料にもなります。


このエントリーをはてなブックマークに追加